松平越前家 越前家宗家 結城秀康




 

不運の連続/越前家宗家

■弱小の宗家と大藩・越前福井藩

 越前家宗家として復活した津山家ではあるが、二代浅五郎が11歳で没したため、再び無嗣改易の危機となるが名家の故を以って、初代宣富の甥の長熙に半知5万石ながら、相続が認められる。これにより越前家宗家でありながらも、5万石の小藩となり、宗家の元々の領地(越前)を受け継いだ次男系の福井家と大きく石高でも差がつき、このことが越前家宗家を分かりづらくする一因となった(このことは津山歴代藩主も認識している)。
 加えて幕府も津山家、福井家両家を御家門筆頭の扱いとしたことがさらに宗家を分かりづらくした。
 このような背景に加え、福井家も意図的に宗家であるかの如く否定もしなかったため、時間の経過とともに5万石の宗家に対して福井家自身の分家意識が希薄となった。その結果、現在に残る本家末家論争が発生する結果となった。

■宗家の証/三河守継承にも不運

 越前家宗家として元服と同時に任官される三河守は、津山に入国した廃嫡の綱国(忠直次男の長男)が既に三河守に任官されていて、既に元服していた宣富(津山初代藩主)が養嗣子となった為、二代浅五郎の元服から津山藩主代々の名乗りとなるはずであった。しかし元服前に浅五郎が幼少で没したため、半知を引き継いだ藩主への任官は中断される。
 七代斉孝の時、幕府からの要請「越前家大宗の家柄でありふさわしい」があり、将軍・徳川家斉の実子・銀之助を養嗣子として迎え10万石に復活する。親王家、御三家に許された駕籠「渋色網代黒塗長棒」の使用のほか、銀之助の元服から中断していた三河守任官も復活し、幕府が津山家を「秀康・忠直を由縁とする家」と認識していたことを改めて確認できる。

■宗家としての津山藩主の認識

 八代斉民は、天保6年の老中・大久保加賀守への内願書に越前本家は津山松平家と断言しており、将軍家との約束として旧石高回復を求めている。
 その中で、越前国(福井藩)は分家であると断じ、分家が「三十万石余ニ而越前国ヲ領地致候故本家与心得候茂有之間敷物ニモ無御座候」との状況になっており、津山松平家の「秀康家筋之規模」が明らかになるように三位の格式と三十万石の復活を求めている。
 これに対して幕府は天保8年8月に秀康、忠直、光長ら嫡流宗家が用いた「金十文字投鞘対鑓」の使用を旧例に復することや、海のない津山藩領に小豆島を加えたほか、預地などでの配慮をみせている。
 「金十文字投鞘対鑓」の使用は先代で復した三河守任官なども併せて、幕府が津山松平家が秀康嫡流であることを改めて示した史実といえる。

■宗家の合印/剣大

 合戦の際、敵味方を区別する越前家の合印「剣大」は、秀康への本多重次の忠義を代々忘れないために、本多の「本」という字を二つに分けて「大」を合印とし「十」の部分を槍の鞘の形とし、父・家康との対面を取り成した兄の信康から授かったもの。津山松平家では初代宣富から参勤交代などに用いて越前家宗家の格式を示した(越前年譜、越前家御代々御道具帳)。
 これは「金十文字投鞘対鑓」「渋色網代黒塗長棒」の使用と同じく幕府の許可なく藩の判断で勝手に用いれるものではない。
 福井家が宗家であれば「剣大」だけでなく、半知となり津山家が幕府から使用を差し止められていた「金十文字投鞘対鑓」など宗家の証であるこれら文物の使用を幕府に願い出て許可されていたはずである。その史実が無いことが福井家が分家であることを裏付けている。
 

■宗家の家宝

 津山松平家は秀康から伝わる系図や家宝および家伝の品々を代々所持していた。特に童子切(国宝)と稲葉郷(同)、石田正宗(重文)の三振の名刀は有名。


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