松平越前家 越前家宗家 越前家系図

越前家嫡流系図

初 代 結城 秀康 越前北庄藩初代 越前67万石増転封。正三位権中納言、三河守  
       
二 代 松平 忠直 越前北庄藩二代 75万石を相続
将軍家に反抗的であるとして元和9年(1623年)隠居・配流
秀康嫡男
       
三 代 松平 光長 越前北庄藩三代 幼少を理由に越後高田25万石へ減転封 忠直嫡男
  越後高田藩初代 越後騒動で延宝9年(1681年)改易
貞享4年(1687年)召還、従三位右近衛権中将兼越後守に復任
 
四 代 松平 宣富 美作津山藩初代 美作国津山10万石増転封 秀康五男
直基の孫
       
五 代 松平浅五郎 津山藩二代 6歳で相続、11歳で早世 宣富嫡男
       
六 代 松平 長煕 津山藩三代 半知5万石で相続 宣富の弟白河新田
藩主・知清三男
       
七 代 松平 長孝 津山藩四代 自身の本家である出雲松江藩主・松平宣維の養子から
宗家・松平長煕の嗣子無く養子となり家督を継ぐ
出雲広瀬藩主
松平近朝の三男
       
八 代 松平 康哉 津山藩五代   長孝嫡男
       
九 代 松平 康乂 津山藩六代   康哉次男
       
十 代 松平 斉孝 津山藩七代 5万石加増、10万石に復帰 康哉四男
康乂の弟
       
十一代 松平 斉民 津山藩八代   徳川11代将軍
徳川家斉十五男
       
十二代 松平 慶倫 津山藩九代   斉孝四男

越前福井藩について
 秀康次男・忠昌系越前家である越前福井藩は、宗家三代目の光長が転封後、同地に増転封され、同じ越前家一門であり石高も宗家を上回ったため、宗家と誤解されやすい上、越前福井藩自体も家格向上を狙い宗家であるかの如く否定もしなかった。領地とともに秀康以来の附家老本多富正らを継承したことが最大の理由であるが、幕府は本多富正ら越前家附家老に対して、この時、大名として独立を打診しており、本多富正が幕命により残留した訳ではない。また下記の通り、越前家が忠直から光長に相続された事実は否定出来ず、光長から家督を譲られ津山へ増転封した津山家が越前家宗家とするのが妥当であろう。

※1 津山藩主自身が幕府に対して送った「越前家宗家と福井家との石高の差が宗家を分かりづらくしている」との書状(津山藩控え)が現存する。
※2 福井県自治体史『福井県史 通史編3・近世一』にも「光長は明らかに父(忠直)の遺跡を継いだといわねばならない」とあり、嫡家である津山家が宗家であることを認めている。
※3 津山家では越前家の名乗りである家康、秀康、忠直、光長と受け継がれた三河守に任官されており、福井歴代藩主は三河守に任官されていない。さらに津山家は最高時で正四位上近衛中将に任官されており、江戸城内での席次も越前家一門の中で最も格が上であった。
※4 津山家は秀康から伝わる系図や家宝および家伝の品々を代々所持しており、合戦の際、敵味方を区別する越前家の合印「剣大」を継承している。
 剣大…初代秀康が兄の信康から授けられたもので、本多重次の忠義を代々忘れないために、本多の「本」という字を二つに分けて「大」を合印とし「十」の部分を槍の鞘の形としたとされる。秀康は母於万の方が匿われた本多重次の屋敷で生まれ、父家康に満3歳になるまで対面を果たせず、その冷遇を不憫に思った兄信康による取り成しで対面が実現する。その兄から授かり、重次の忠義を示す合印「剣大」は越前家において合印のみならずそれ以上の意味を持つ(越前年譜、越前家御代々御道具帳)。
 合印(旗印)は松平家では会津家の「會」が有名。



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