松平越前家 越前家宗家 結城秀康

越前松平家

■越前家とは

 松平越前家(越前家)は、徳川家康の次男、結城秀康(松平秀康)を祖とする徳川御家門筆頭の大名家である(秀康の弟、家康三男の秀忠が徳川二代将軍)。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦後、秀康が越前に67万石で加増転封されたことによって成立した。
 家康、秀康、忠直、光長に受け継がれた三河守は越前家宗家の名乗りとなる。また越前家の合印「剣大」は、初代秀康が長兄の信康から授かったもの。秀康没後の越前家は御三家に次ぐ制外の家とされた。

 以下は、秀康以降の子孫(嫡流宗家)を記す。

越前家宗家

■越前家宗家(越前北庄時代)

 初代・秀康の死に伴い越前75万石を相続した二代忠直は将軍家に反抗的であるなどの理由で元和9年(1623年)隠居・配流され、二代将軍秀忠の孫(秀忠の娘・勝姫の子)である嫡男・仙千代(光長)が跡目相続した。翌年の寛永元年(1624年)、江戸城中で養育された光長は、幼少であることを理由に越後高田25万石へ国替えとなり、越前にはそれまで越後高田を領していた忠直の弟忠昌が50万石で増転封となった。(※当主幼少を理由とする同族間での転封は異例ではなく寛永9年(1632年)には岡山藩・鳥取藩池田氏でも国替えが行われている。)

 この時、曲折があり反忠直派であった家老の本多富正や百余人の家臣らは越前に残留し、幕府は秀康以来の附家老である富正や同じく附家老の本多成重に対して「大名として独立」を打診。成重は実際に丸岡藩を興している。この他の小栗氏、山岡氏ら秀康以来の譜代家臣をはじめとする越前家家臣団は越後高田へと移り、越前家宗家としての越後家となる。秀康−忠直時代は越前北庄藩、秀康の次男・忠昌以降が越前福井藩として区別される。

■越前家宗家(越後時代)

 その後、光長の越後家(越前家宗家)は御三家に准じる越後中将家として重んじられると同時に高田藩は開墾を盛んに行い内高は36万石余りとなったが、光長の嫡子綱賢が42歳で男子なく死去。15歳の万徳丸(光長の異母弟永見大蔵の子、元服して将軍家綱から一字をもらい綱国となり、三河守に任官)の世継ぎ問題が絡んだ越後騒動と呼ばれる首席家老小栗美作とこれに敵対する一族重臣とが争う御家騒動で越後家は延宝9年(1681年)改易となる。これにより6年間の越前家宗家空白期間が生まれる。

 しかもこの空白期間に宗家に次ぐ家格の秀康次男・忠昌系松平越前家の第4代福井藩主、綱昌が家臣を殺すなど発狂。これを幕府に咎められて、貞享3年(1686年)、越前福井藩も改易・廃藩となる。この時、宗家の光長も越後騒動で伊予松山藩(藩主・松平定直)にお預けとなっており、宗家に次ぐ福井藩までも絶えれば秀康以来の一族が末家のみになるという背景から幕府は、特別に前藩主であった昌親に新知25万石を与え存続を許した。しかし藩主に将軍の名前の一部を与える偏諱や葵の紋を使うことも一時許されず江戸城控えの間も変えられることになる。

■越前家宗家(柳原時代)

 秀康以来の名族(嫡男、次男系)の相次ぐ危機に幕府は翌年、貞享4年(1687年)、光長を召還すると従三位右近衛権中将兼越後守に復任し、さらに光長の老齢を理由に隠居を交換条件とする松平越前家宗家復活を徳川光圀の周旋によって確約する。これによって前橋松平家より養子の宣富(秀康五男直基の孫)が跡目相続し、元禄11年(1698年)、宣富に対し美作国津山10万石が与えられ、家格を旧の如くに復した。また綱国は元禄6年(1693年)に病気を理由に廃嫡され、その子孫は家祖、秀康の母方の実家である永見氏に姓を戻し、津山藩家老の家系となった。

 津山藩では越後から松山及び福山へ随行した家臣を譜代、召還後の柳原邸時代に召抱えた家臣を古参、津山転封以降に召抱えた家臣を新参と称した。
 また廃嫡された綱国も転封先の津山へ移り津山城の北東に宮川御殿と呼ばれる広大な屋敷を構える。宮川御殿跡(津山市の宮川に架かる三枚橋西詰め北側)の説明板には「この石垣の一角に江戸中期ごろ宮川御殿と呼ばれる屋敷があった。津山松平家は越前に始まり越後に移封、そこで越後騒動が起き改易となったが、元禄11年に津山に復活。許された嫡子・松平綱国は藩主の座を辞退、自分はここに隠棲し静かな余生をおくった」とある。
 綱国は津山松平藩初代藩主となる宣富より先に(元禄11年11月)津山に入り、先遣隊だったとする説や宣富の綱国への配慮とする説があるが、綱国自身は病気を理由に藩の要職には就かなかった。宝永5年(1708年)に出家して更山と号し、享保20年(1735年)に74歳で没した。

■越前家宗家(津山時代)

 越前家宗家として復活した津山家ではあるが、二代浅五郎が11歳で没したため、越後時代に続き再び無嗣改易の危機となるが名家の故を以って、宣富の甥の長熙に半知5万石ながら相続が認められる。これにより越前家宗家でありながらも、5万石の小藩となり、宗家の元々の領地(越前)を受け継いだ次男系の福井家と大きく石高でも差がつき、このことが越前家宗家を分かりづらくする一因となった。加えて幕府も津山家、福井家両家を御家門筆頭の扱いとしたことがさらに宗家を分かりづらくした。

 津山藩主も幕府に対して分家(福井家)が「三十万石余ニ而越前国ヲ領地致候故本家与心得候茂有之間敷物ニモ無御座候」との状況になっており、津山松平家の「秀康家筋之規模」が明らかになるように三位の格式と三十万石の復活を求めている(写しが現存)。

 さらに津山歴代藩主は初代宣富から越前家の家祖・秀康からの合印「剣大」を津山松平家の合印として参勤交代などに用いて嫡流宗家の家格を誇っており、秀康から伝わる系図や家宝および家伝の品々を代々所持していた。有名なものでは、家康、秀忠から忠直(家康から秀康とも)を経て津山家の家宝として受け継がれた童子切安綱(現在は国宝)がある。

 その後、第7代津山藩主・松平斉孝(従四位上、越後守近衛中将)で10万石に復活。2代浅五郎の早世で中断した三河守任官も復活する。8代藩主、斉民(第11代将軍、徳川家斉の十六男。福井家も二十二男、斉善を迎えている)以後の藩主は元服と同時に越前家宗家の名乗りである三河守に任官(福井歴代藩主で三河守に任官された藩主はいない)され明治を迎えている。また津山家は親王家、御三家に許された駕籠「渋色網代黒塗長棒」の使用が許されており、津山家は最高時で正四位上近衛中将に任官されており、江戸城内での席次も越前家一門の中で最も格が上であった。

 



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不運の連続/越前家宗家

 
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